*神農堂のいわれ

農耕と薬草の神様、元祖プラントハンター

 神農堂の名前は、薬草の神様、神農氏から取っています。

炎帝神農(えんていしんのう)は、古代伝説上の神様です。
五穀仙帝、薬王大帝とも呼ばれて、農耕と医薬の術を人々に教えました。
炎帝は、彼と異父兄弟であるもう一人の帝神とともに、それぞれ天下を二分して統治していました。
炎帝の治めていたのは南方の一万二千里の地方で、つまり炎帝は南方の帝でした。
太陽神である炎帝は、仁愛(利他)の神でした。
人々に五穀の種を播き育てて食物を得ることや、土地を耕すための木で作った農具を教え、食に憂うることがないようにしたのです。人々は炎帝の功徳に感謝して、彼に「神農」という尊称を捧げました。
 

台南の神農街
台南の神農街

百草をなめて、一薬を知る


 神農は農業の神であるとともに、薬草の発見者、元祖プラントハンターです。
太古の時代、人々は食物をすべて生で食べていました。
空腹になると周囲にある植物を採って食して、植物の毒にあたって命を落とす者が非常に多かったのです。
神農は、多くの人が物を食べては寒邪あるいは熱邪による病いになって死んでゆくのをみて心を痛め、どのようにして人々を救おうかと苦慮していました。
 神農は赭鞭(しゃべん)という名の神聖な鞭を持っていました。
この紅褐色の鞭で植物を叩くと、植物は有毒か無毒か、寒性か熱性かたちどころに分かるので、
植物などその性質の違いによって薬の処方をたてることが出来ました。
また、神農の腹が水晶で出来ているため、自分の食べたものがどのように消化され排泄されてゆくかを見ることができるので、
種々の植物を口に入れて嘗め、薬草と毒草に分け、またその気味によって薬としての効力を区別して多くの薬草を発見しました。
一日に七十回も毒にあたりながらも民衆に尽くしたといわれています。最後は断腸草の毒により自らの生命を犠牲にしたといいます。
 神農は、誰かが病気になったと聞くと、薬草を携えて、何時でも、何処までも、出向いていって治療しました。
彼の死後、人々は生前において尽くした功績を讃えて「薬王菩薩」とあがめ、各地に祠を建て記念したといわれています。


大阪道修町少彦名神社にも祀られ、毎年11月22日、23日神農祭が行われています。

 

神農本草経と神農氏
神農本草経と神農氏
神農市場
神農市場